ケニア人スタッフ ウィニー

ウィニーWinnie Mutugi

1977年1月15日生まれ

シャウリモヨのマジェンゴというスラムで生まれました。

私は子どものころ、母が早くに私を産んだのもあり、私は祖母に育てられ、両親の愛を受けずに育ちました。父がたまに会いに来るくらいでした。

その父は私が13歳の時、何者かに殺されてしまい、私は人生が終わったかのように感じられました。

おそらく母と恋愛関係のあった警察官から殺されてしまったのではないかと思います。証拠がないので分かりません。

父が殺されてから私は母と住むようになったのですが、母は父に似ていた私のことを嫌い、私は母に叩かれ、「父のような顔で私を見るのはやめて!」と母に言われ、とても恐れて暮らす毎日でした。

母が恐ろしく、父が恋しくて恋しくて、自殺すればお父さんに会えるんじゃないかとそんなことばかり考えるようになり、ある日自殺を決意しました。

「自殺すればお父さんに会える。お父さんに会いたい。」と遺言を書き、車が激しく行き来するジョゴーロードに飛び込み自殺しようと決意し、その道を駆け抜けようとしたその瞬間のことでした!

私の友だちが突如現れ、私の手を引っ張り、私に会えて嬉しそうな顔をしたのです。

私の目は涙に溢れ、友だちは即座に私の状態が尋常じゃないことに気づきました。

「自殺したいの。お父さんに会いたいの。」と泣きながら言う私に、友だちはショックを受け、私が生きていることにどれだけ価値があるのかということ、そして本当にたくさんのアドバイスをくれ、励ましをくれ、私の自殺は未遂に終わりました。

そしてどう生き延びていこうか考えました…。ストリートチルドレンになるか、それとも母と暮らすか。

母と暮らすのは嫌だ…と思案し、ストリートチルドレンになろうとした直前に、セントジョーンズという団体組織が若いメンバーを募集しており、私のポテンシャルを知っていた友だちが、そこを紹介してくれました。

私はそこで無料で暮らしながら、エイズやジェンダーの問題、環境問題など学ぶことができました。たくさんの友人ができ、私は優秀な生徒として表彰され、ここでの生活は私の人生のターニングポイントとなりました。

そこでイブラと出会い、私は妊娠し、双子の娘のチュチュとイシャを産みました。

この私の辛かった子ども時代の経験こそが、両親の愛を受け取れなかった子どもたちのために、何とかして私の人生を費やしていこうとしている大きな理由です。

スラムを彷徨っていたラティファが自殺を決意しているのを見て、マーザがレイプされてしまった大きなトラウマを抱えているのを見て、私は自分の子ども時代を思い出し、どうしてもどうしても放ってはおけず、この子たちを守っていきたいと、そう強く決意しています。

両親が与えるような愛をこの子たちに捧げたいと思います。子どもたちがたとえこの先どんな困難があろうとも、乗り越えなければならないこと、伝えていきたいと思います。

学校からではなく家庭での両親の役割はとても重要です。子どもたちの心の成長に大きく関わります。

また、今では私は私の母(ママワンガレ)といい関係を築いています。心理学を学び、母は私を嫌っていたのではなく、私に似た父を嫌っていたのだと、新しい警察官の男の人と関係を築くのに私は重荷に感じたのだと今なら分かります。

心理学を学び、なぜマーザがレイプしたと思われる父に会いに行き、行方不明になったのか分かります。父親の愛がほしかったのです。

ただ孤児を受け入れるのはとても大変なことです。お母さんの支援の方がよっぽど簡単です。

子どもが孤児にならないように、お母さんの支援をすることが大切です。免疫力が弱くなりがちなHIV陽性者であるお母さんたちの緊急時の支援もとても大切だと感じています。

いつかちゃんとした家を建てることを夢見ています。今は安全に住むことができないケンやエリザが住むことができ、私を頼ってくる多くの人たちのための家を建てたいと考えています。

日本からの経済的な支援はとても大きなもので、今まで支援が続いていなかったら私の母やママジャキーは何度も確実に死んでいました。孤児も私の力だけでは学校に行くことはできません。この経済的支援がないとTumaini Nyumbaniの存続は不可能です。

私は人を助けることについて​全てを日本人にお願いしないといけないなんて考えていません。友だちが暴動だったり何らかの事情で私の家に泊まりに来ることがありますが、快く食べ物や住む場所を分け合います。

ただ孤児の学費や医療費はとても高いもので、生きていくには欠かせないもので、応援してもらえると助かります。

どうか日本の皆さま、Tumaini Nyumbaniをサポートし続けて下さい。ありがとうございます!